history
これまでの歩み
早良区のルーツは、区名にもなっている旧早良郡にあります。
大正期から昭和期にかけて福岡市に編入された西新町(大正11年)、原村(昭和4年)、田隈町(昭和29年)、金武村の一部(昭和35年)、早良町(昭和50年)という旧早良郡を形成していた町や村が現在の早良区を形作っています。この写真は旧早良郡や早良区の昔の街並みや風景、行事など、地域の人々の暮らしの移り変わりを写した貴重な歴史の一枚です。
国道202号
西新校区の商店街
西新1丁目商店街はかつての唐津街道で、昭和50年代まで酒屋や醤油屋、鮮魚店、八百屋、用品店など、人々の生活に密着した店が建ち並んでいました。地下鉄1号線の開業や西新エルモールの誕生など商店街を取り巻く時代環境に対応すべく、道路の改良工事に着手し、昭和61年に「オレンジ通り商店街」として生まれ変わりました。
西新中央商店街の名物になっている「リヤカー部隊」の歴史は戦前までさかのぼります。農家の奥さんや子どもが、自分の家で採れたものをリヤカーに積んで、西新で売り歩いていたのがそもそものはじまりで、戦後になって、商店街の中での行商が行われるようになったということです。最盛期には100台を超えるリヤカーがオレンジ通り、西新中央商店街、中西商店街、高取商店街、藤崎通り商店街にびっしりと並んでいたということです。
高取校区の商店街
高取校区には、東から中西商店街、高取商店街、藤崎通り商店街の3つの商店街があります。
古くは唐津街道の要衝地として栄えた本通り沿いには、質屋や米屋など、さまざまな商売を興し、財をなした伊佐家(現伊佐ホームズ事務所)や江戸期から大正期に建てられた高尾家(現ふとんのタカオ)などの居宅があり、今も往時の面影を残しています。
土地の高度利用(ビル化)による商業機能の強化を目指して、昭和51年に高取商店会が発足し、その起爆剤としてスーパーサニーの誘致が行われました。
昭和56年の地下鉄1号線の開業を契機として、本通りの利便性はさらに高まり、現在ではマンションと一体となった界隈性豊かな商店街が形成されています。
その昔早良区にあった映画館
サザエさん発案の地・百道海岸
よかトピア通りは、以前は海岸線で、ここには大正7年(1918年)に開場された百道海水浴場がありました。昭和30年代頃まで市民のレジャースポットとして賑わっていましたが、都市化の進行による水質悪化でいつしか遊泳禁止になりました。百道海水浴場には20軒ほどの海の家があったということです。
サザエさんの作家の長谷川町子氏は、小さい頃に父親の仕事の都合で福岡市に引っ越して来られました。父親が亡くなり、一家は叔父を頼って一旦東京に移り住まれましたが、戦禍を逃れるため、昭和19年に再び福岡市に戻ってこられました。福岡での新しい家は西新にあり、家の裏が百道海岸でした。町子氏は妹と浜辺を散歩しながらサザエさんの構想を練られ、昭和21年に福岡の地元紙「夕刊フクニチ」に連載を開始したのが漫画「サザエさん」です。
百道海岸にあった海の家「ピオネ荘」は、西新2丁目にある百道海水浴場跡碑から西方向に約300mのよかトピア通り沿いにありました。
海水浴場閉鎖後の「ピオネ荘」は、大相撲九州場所開催時の花籠部屋、二子山部屋の宿舎、大学の部活動の合宿所やコンパ会場になったりしていましたが、この場所で青春時代を謳歌したオールドファンに惜しまれつつ、平成15年にその幕を閉じました。
路面電車がはしる風景
早良区内の路面電車の歴史は、北筑軌道が明治43年に今川橋ー加布里間の営業運行を開始した時にさかのぼります。紅葉八幡宮は、現在の西新パレス一帯にありましたが、電車が境内を横切り、静粛さが失われてしまったため、大正2年に現在の地に遷宮されました。
福岡市内線の母体は、福博電気軌道を博多電気軌道です。この2社は明治末期、別々に路面電車を開通させ市内の路線網を拡大させていきましたが、昭和9年に福博電車に統合され、昭和17年に西日本鉄道が誕生しました。
その昔早良区にあった刑務所
現在の早良区役所や早良市民センター、ももちパレス、早良警察署、九州郵政研修所などが立地するエリアには、かつて福岡刑務所がありました。福岡監獄署(のち福岡刑務所)は、大正2年に博多区の須崎町(須崎公園、市民会館)から藤崎に移ってきて、昭和40年に宇美町に移転するまでの間、約12ヘクタールという広大な敷地を占めていました。